CHAPTER 029

『地下室の手記』と'One more cup of coffee'

ドストエフスキー『地下室の手記』。たしか17歳のときに読んで、まるで自分の話であるような錯覚まで覚えた、思い入れの強い作品だ。これをきっかけに長編作品にも手を出していき、もちろん各々から感銘は受けたけれど、結局今になってもドストエフスキーの作品では『地下室の手記』が自分にとって最も身近である気がする。

 

 

引きこもりの聖書、なんて揶揄されることもあるこの作品。タイトルの通り地下室に籠って生活する人間の手記という形式になっている。「僕は病んだ人間だ、性格の悪い人間だ」なんて始まる。なんと暗い。彼は公務員として働いていたけれど、親戚の遺産を手にして40歳で隠居している。

 

 

色々と自分と世の中を批判するようなことを並べるが、やがてなぜそんな風になったか、ということを語りだす。20代の公務員時代、仲間にバカにされ、軽んじられたことがあった。非常に悔しく不愉快な思いのまま、それを晴らすかのように彼はリーザという娼婦と関係をもつ。貧しいリーザの身の上話を聞き、彼女を大いに励ます。君だって幸せになる権利はあるし、必ずそういう未来もある。「いつか僕の家に遊びにおいで、また話そう」と住所を渡す。

 

 

その直後から彼は自己嫌悪に苛まれる。なんで自分みたいな人間が偉そうに彼女に説教をしているのか。ある日リーザが家にやってくるも、そのこと自体が彼女を騙したように感じられ、余計に彼の自責の念と苛立ちを高める。「なんでここにきたの?同情されて嬉しかった?」などと彼女を問い詰めた後に全てを告白する。仲間達にバカにされた悔しさの憂さ晴らしとして、彼女から尊敬の念を得てやろうと思って励ましただけということ。自分は優しく立派な人間などではなく、はっきり言って(今淹れたばかりの)一杯の紅茶のためなら世界なんて滅びたっていいと思っていること。ドストエフスキーならでは、まるで劇のような長い台詞。終いには「もう帰ってくれ。僕は善良な人間なんかになれないんだ」と。リーザは呆然と立ち尽くした後、さようなら、とお金の入った封筒を置いて帰る。お金で関係を持った、貧しいはずの彼女が返金するのはどういうことか。主人公は表にでてリーザを探す。でもこれで謝って許しを得たところで、結局は彼女を騙すようなものだ、と考える。

 

 

さすがに今この主人公の考えに完全に同意することはないけれど、理屈はわからんでもない。優しさというのも相手を思ってのことか、<自分が善良な人間でいたいから>なのか、わからないことも多々ある。人はそれを偽善という。が、偽善ではない善なんてどれだけあることか。一杯の紅茶がこの世界より大事、というのもどこか実存主義的でサルトルが喜びそうな話だ。

 

 

さて音楽の話。こんな作品にあう、とは言いきれないけれど同じく自分が17歳頃に熱心に聞いていたボブ・ディランから。『欲望』という個人的に好きなアルバムがあって、ロックにしては珍しく全編ヴァイオリン(フィドル?)入りの作品。アルバムの真ん中あたりに'One more cup of coffee'という寂しげな曲がある。コーラスはエミルー・ハリスのはず。幸薄そうな女性を題材にした歌詞で、当時ドストエフスキーを読み漁っていた高校生は「もしかしてボブ・ディランもこの小説が好きでロシアの紅茶をアメリカのコーヒーに置き換えたのでは?」と短絡的に考えたけれども、さすがにそんなことはない気もする。

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