CHAPTER 030

『フラニーとゾーイ』とFat lady

若い頃アメリカの作家は軽んじてたんだけど(英米文学科だったのに!)、J.D.サリンジャーは肌にあったようで20代後半くらいから読むようになった。特に印象的なのは『フラニーとゾーイ』で、今でもたまに読み返す。舞台に立つ人が共感しやすい作品と思っていたけれど、考えてみたらあらゆる人にも通じるテーマかもしれない。以下、かなりかいつまんで、勝手なあらすじを書いていく。(読みたくない方はどうぞ引き返してください)

 

 

フラニーもゾーイも人の名で彼らはグラス家の兄妹だ。彼らは全部で7人兄妹なのだが、全員が天才児として話題となった経験がある。一番下が大学生のフラニーで、彼女は俳優をやっている。彼女は天才と評価されるも、それに悩む。

 

 

自分の演技を天才と褒め称える評論家もそれを追従する人も、とりあえずわかったような顔をしているだけだ。いくら自分が懸命に演じても、本当は誰も劇や演技に興味ない。自分は何のために演技をしているんだろう。ある日悩んだあまり彼女は倒れてしまう。

 

 

療養中に訪れるのが兄のゾーイで彼も俳優だ。母親に「フラニーが食事をとってくれない、あんたからも何か言ってやってくれないか」と頼まれてゾーイはフラニーの部屋に行く。フラニーはもう大学も役者もやめて修道院に入りたいという。人の世なんかに関わりたくない、神のために生きたいと述べるフラニー。最近は(以前に自ら命を絶ってしまった)長兄のシーモアがすごく身近に感じる、などなど。ゾーイとフラニーは演劇論や神、人間について大いに口論する。(割愛しているが、ここも面白い)

 

 

やがてフラニーはゾーイを追い出す。しばらく経つと電話がかかってくる、さらに上の兄のバディからだ。ゾーイはどうしてる?などと聞かれて「ゾーイ?元気そうよ、殺してやりたいくらいね」などと返す。バディもフラニーと色々と口論していると、彼女は気づく。「あなたバディじゃなくてゾーイでしょ?」

 

 

バディを装ったゾーイは無視して話を続ける。「これだけは言わせてくれ。君のことを心配してチキンスープを用意する母親がいるわけだろ。弱っている人間に食事を与える、なんて最も宗教的な行為を無視しておいて『神のために生きる』っておかしくないか?」と。そして長兄のシーモアとの思い出話を始める。かつて天才として騒がれたグラス兄妹は皆'It's a Wise Child'というラジオ番組に出演していた。(文字通り賢い子供にクイズを解かせる番組)それに出る準備をしていた幼いゾーイにシーモアが声をかける。「出る前に靴を磨いておけよ」と。ゾーイはイライラしている。「なんで?あの番組の司会者も製作側も皆バカだ。視聴者もみんな、僕らを面白がってるだけの俗物だ。なんでそんな連中のために靴磨くのさ。しかもラジオなんだから靴なんて誰にも見られないじゃないか」と答える幼いゾーイ。シーモアは「いや磨かなきゃいけないんだよ、太っちょのおばさんのために」と微笑む。

 

 

フラニーは「私もシーモアからその人の話、されたことある!太っちょのおばさんのために楽しく喋ってきな、って」と返す。ゾーイは続ける。「太っちょのおばさんってさ、たぶん毎日だらっとラジオ聞いていて、そんなに裕福じゃなくて、体もどこか悪くて。そんな人だと思うんだよ」と。シーモアに言われてから、ラジオ局の誰かでもなく、番組の長年のファンのためでもなく、見知らぬ、存在するかもわからない「太っちょのおばさん」のために、ゾーイは毎回靴を磨くようになったと言う。

 

 

ゾーイはさらに話す。「どんな小さなイベントでも、どんな大きな劇場でも、太っちょのおばさんは必ずどこかにいる。むしろ太っちょのおばさんではない人なんて、この世にいないのかもしれない。それで実際、彼女が何者かといえば、それこそ神そのものなんじゃないかな?」フラニーが受話器を大事そうに持っていると「うん、もうこれ以上、喋ることなんてないよ」という声と共に電話は切られる。フラニーは電話が切られ受話器を置くまで耳をすまし、静寂を感じた後、深く穏やかな眠りにつく。

 

 

ということで長くなったし、ゾーイの言葉に従い、音楽の話は割愛。

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