CHAPTER 009

『ロイス・タゲットのロングデビュー』とアメリカンポップス

今回は個人的な思い出話に等しい。自分が高校生だったころに、課題みたいなもので英語の短編をいくつか読まされた。モームが多かったかな。その中ではっきりとは覚えていないものの、なぜか忘れられない短編があった。決して貧しくもないけれど、不運、不器用な感じの女性の話。作品の最後は子供を不慮の事故で失くして茫然としている夫に「靴下をはいてよ(かつてこの夫婦は靴下のことでもめている)」と言い唐突に終わる。その程度の印象で、別にどこに感動した、とかいうわけでもないんだけれど、妙にその場面を覚えていた。作者はJ.D.サリンジャー。

 

 

最初に出会ったサリンジャー作品が『ライ麦畑』でもなく『フラニーとゾーイ』でもなく、こんな短編だったとは!細かなことは覚えていないけれど、最後の場面が妙に現実的に感じられた。子供を不慮の事故で失って夫婦で心を痛めている最中、こんな些細なことで小言を言うものなのかもしれない。そしてこんな小言自体にも彼女の不安定さ、夫婦関係の破綻も現れている。たまにこの作品を時おり思い出したが、題名も登場人物の名前も覚えていないし、改めて読む機会はなかった。

 

 

先日たまたま個人的に好きな街、日本橋にいった。そのついでに丸善に行ったもんで、せっかくだから何か買うか、と持っていないサリンジャーの作品集を手に取った。『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年』という文庫。『ハプワース16』の方は知っているけれど、他の短編は読んだことがないな、と思って。そんなもんで本日電車の中で読んでいて、たまたま巡り合ったのが『ロイス・タゲットのロングデビュー』。まさに高校の頃に読んだ短編はこれだった。なんとなくの展開と最後のセリフしか残っていなかったので「これだ」と確信するのも時間がかかった。

 

 

改めて読むと、この主人公の女性ロイスはすごく裕福な家の娘であるものの、やっぱり何かとうまくいかない。元々ロイスの財産目当てで結婚したはずの男が、ふとしたきっかけで自分の事を本当に愛してくれるようになり、やっと幸福を実感する。と思いきや、無意識にDVを行ってしまう病が発覚し即離婚。その影響かロイスは体格の良いハンサムな男が苦手になる。やっと巡り会った別の男と結婚するも、すぐに飽きてしまう。太ってるから運動しなさい、白い靴下なんてやめて黒いのを履きなさい、タバコを吸うならふかすのやめたら?とか、小言ばかり並べる。暇なのでしょっちゅう映画館に通って、実は心のどこかで別の男友達と会って話すことを楽しむ。あー、こういう人と結婚すればよかった、とか思いながら。そんな中、やっと授かった赤ん坊を中心に夫婦でもコミュニケーションをとるようになったところで、赤ん坊は不慮の事故で亡くなる。ロイスが愛さなかった男(夫をこのように表現する)は茫然と絨毯を見つめている。30分ほど窓の外を眺めていたロイス(軽く付け加えられたこの表現だけで、彼女自身も相当に弱っていることがわかる)がその様子を目にし、今まで以上に夫が愚かに見える。夫にどうしても言ってやりたいことがある。

 

 

なんとまあ暗いというか、救いもない話。夫にどうしても言ってやりたいことが先に述べた、(元々ロイス自身が嫌ったはずの)「白い靴下を履きなさい」。これはもう自分は貴方とは関係ない、という宣言なのかもしれない。小説でしか表せない描写だろうね。陰鬱とした話ではあるが、忘れ物のような、久々の友人のような、短編と出会えて本当に良かった。改めて好きな作品が増えたような気がする。

 

さてようやく音楽の話。時代がまさにアメリカンポップス全盛の頃なのだろう。ロイスは流行りの曲『ビギン・ザ・ビギン』をご機嫌に口笛で吹くし、ラジオからチック・ウェスト・オーケストラが『煙が目にしみる』が流れたりする。もちろん今やジャズスタンダード。せっかくならサリンジャーが聞いたと思われる演奏を探してみたけれどなかなか見つからない。残念。言うまでもなくどちらも名曲。『煙が目にしみる』なんか良い演奏だらけで、クリフォード・ブラウン、キース・ジャレット、あげればキリがない。

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