最近、バッハの最高傑作の1つ(と思っている)『マタイ受難曲』(以下、マタイ)のアリアの、ボーカルが始まるまでの前奏をよく家で弾いている。練習というか儀式みたいなものなので、誰かに聞かせる気はないけど。
この曲はバッハがマタイの福音書を元に作曲したもので、ペトロが悔いながら涙を流す場面のものだ。イエスの弟子、ペトロはイエスに「あなたに忠誠を誓います、信じ続けます」などと言っていたのだが、イエスは「おまえは鶏が泣くまでに3回、私のことを知らないと言うだろう」と返す。ある日イエスが罪人として扱われ「貴様もあの男と親しいのか?」などと問われたペトロは私は知らない、と返す。それが三回。やがて鶏の声をきいたときに、本当に自分が三回嘘をついたことを気づき号泣する。
私がキリスト教にも聖書にもそれほど詳しくないせいか、このエピソードが有名なものだとは知っていても「嘘はよくない」とか「イエスはここまで知っていたのかな」くらいの単純なことしか思わなかった。(まるで子供の感想みたいだ)しかし最近『マタイ』を弾いていてふと思った。このペトロの苦しみ、すなわちこの罪はあらゆる人間の原罪そのものなんじゃないか、と。
ペトロも自らのために「知らない」と嘘をついていて、正直に振る舞っていれば罰を受けていた。かといって彼が罰されるのが理想的な結末だったとも思えない。イエスからしたら自身が犠牲になるから皆は生きろ、と思っていたはずだ。(というかキリスト教ってそこが原点ですよね、たぶん)どんな人も生きる過程で、誰かに迷惑をかけたり世話になったりしている。それは大げさに言うと他人を犠牲にしているようなものだし、ペトロとイエスの関係もそういうことになる。生きているだけで何かしらの罪を犯しているし、罪を背負っている。人の原罪ってそういうことだよね?ペトロはそれを思い知って号泣した。反省も時には必要だろうけど、なんだかんだそういうことも背負いながら生きるしかない。So it goes, そういうものである。ハイホー。(@ヴォネガット)
さて大きく振りかぶって、『マタイ』の話に戻る。映画監督タルコフスキーの遺作で『サクリファイス』という作品があって、音楽は『マタイ』のアリアで、冒頭とエンディングに同じ曲が丸ごと、二回流れる。
喉をいためてしゃべることのできない子供と(やや年をとった)主人公である父親が散歩する場面から始まる。「はじめに言葉ありき(新約聖書ヨハネ福音書の冒頭からの引用)、というのに、お前は今喋ることができないからな」などと声をかけながら一緒に枯れた木の世話をする。やがて核戦争が始まり、男は神に祈る。「どうか、世界をお救いください。救ってくれるなら、私は誰とも口をきかずに過ごし、全てを手放してみせます」明くる日、世界はなにもなかったように日常に戻っている。男は誰にも言わぬまま全てを手放す、という約束を果たそうとする。
文字通りサクリファイス(自己犠牲)の物語になっているのだが、ワンカットの長いカメラワークや音や間などが大事で、展開がどうこうという作品ではないような気もする。劇のようでも絵画のようでもあり、台詞や映像などから様々なことを感じさせる作品になっている。終盤に『マタイ』の流れる中、子供は木の世話をしている。序盤に枯れていた木は緑を生い茂らせており、そのそばで「はじめに言葉ありき。なぜなの父さん」と初めて声を発する。エンディングの明らかに自分の最期を意識している、タルコフスキーからのメッセージも実に力強くて印象的だ。