CHAPTER 004

コルタサルの話からゲンズブールの話へ

最近ガルシア・マルケスの長編小説、『百年の孤独』が文庫化されたことが話題になっている。あんな大作をよく文庫化したなあ、とも思うが、考えてみたらプルーストやドストエフスキーの作品も文庫化しているんだから、できないことはないのか。売行きは好調らしく、来年には同じマルケスの『族長の秋』も新訳で出版されるとか。うーむ、そちらは売れるだろうか。

 

 

かつてラテンアメリカ文学ブームってのがあって、その中の代表的な作家がマルケスやボルヘスであった。その頃に『百年の孤独』は話題になり、タイトルのインパクトから、日本でも同名の焼酎が作られたとか。ただ自分が惹かれた作家はフリオ•コルタサルだった。

 

 

自分がフランスにいた頃、言語学校がモンパルナス墓地の近くなもんで、よくそこでお昼にパンを食べていた。(外食は高い。そして向こうの墓地って公園みたいなもんで散歩したり、のんびり過ごす人が多い)そこにコルタサルの墓があって、敬意をこめてたまに見に行っていた。お供え物も何も見たことはなかったけど。

 

 

コルタサルの作品の特徴を強引にまとめると「存在しないものを感じる。あるいは存在しているものから(別の)何かを感じる」ものである。『母の手紙』という短篇では主人公ルイスの母親からの手紙で「ニーコがパリに行くらしい」と、ルイスの死んだ兄、ニーコの名が出されて驚く。パリで一緒に暮らしている妻ラウラは元々兄の恋人だったこともあり、兄が死んでから自然と夫婦の間でニーコの名を出すことはなくなった。母の認知症を疑ったり、ニーコがいた頃、そしてラウラとの出会いを思い出したり、主人公は悶々と過ごす。

 

 

「今月はお義母さんからの手紙遅いわね」という妻におそるおそる母からの手紙を見せると、やや気まずい空気なる。母から改めて送られた手紙には「前にも書いたように(従兄弟の)ビクトルがパリに行くかも」と間違いを訂正するかのように書かれておりホッとするも、そのまた後日には曖昧な手紙が届いたり、どうも判然としない。どうしても気になるルイスは、ふとアルゼンチンからの船経由で到着するはずの電車を見に行く。なんと駅にはラウラもいる。電車から降りるアルゼンチン人二人組の片方はパッと見たところニーコによく似ている。やがて乗客は散らばっていき、ラウラもそれを見届けてから姿を消す。

 

 

ルイスが帰宅すると、ラウラはいつものように迎えてくれる。しかし彼には三人分の食事があるように思えるし、隣の部屋に誰かがいるような気がする。駅にいたことはお互い触れぬまま、ルイスは言う「あいつ、ひどく痩せたとおもわない?」ラウラは曖昧な素振りをするも、涙を流しながら返す。「そうね、痩せたわね。何もかも変わっていくのよ」

 

 

いやあ、コルタサルは実に上手い。ただこの『母の手紙』、スペインで映画化されているらしく、じゃあ音楽の話するのも簡単だな、と思いきや監督の名前くらいしか情報がない。なんということか。ちょっと見てみたかったけど。

 

 

そんなわけで、またモンパルナス墓地の思い出話から強引に音楽の話を。そこにはセルジュ•ゲンズブールの墓もあって、コルタサルの墓やベケットの墓(ゲンズブールの真正面にある。もちろん閑散としている)にいくときに、横目で見ていたが、何かしらの花や供え物がたくさんあった。さすがはフランス国民的歌手。私はゲンズブールの大ファンではないが、La Javanaiseは最初に聞いた時から好きだった。フランスに住み始めた頃に野外ライブに行った時、アンコールでちょっと流れるとお客さんみんなで口ずさんでいるのも印象的だった。「Javaを踊っている時間だけ、僕らは間違いなく愛し合っていた」と、だいぶ未練がましい歌詞になっているんだけれど「失われた、存在しない何か」を感じているようで、それも嫌いではない。

 

 

「実際には存在しない何か」を感じる、と言葉にすると、妄想や病気のようにも聞こえるけど、世の中はそういうものにあふれてる気もする。音楽も絵も写真も、所詮はただの音であり、絵の具であり、フィルムにすぎない。そういったものに感動するというのは、そういった物質以上の何かを感じるということなのだから。

 

 

付記

なおコルタサルには映画化された『悪魔の涎』(ヤードバーズ出演!)、チャーリー・パーカーがモデルの『追い求める男』など音楽の話をするのにもふさわしい名作もあるので、気が向いたらその話やります。(最初からそっち取り上げろ、って話なんだけど)

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