文学作品、映画作品について(一応)音楽を交えて書く、というのがこちらのコーナーであるのだけれど、定番みたいな組み合わせになってしまった。『ティファニーで朝食を』といえば大半の人は映画を思い浮かべるような気がするし、黒いドレスに身を包んだ、それはそれはチャーミングなオードリー・ヘップバーンが微笑みながら頬杖をつく、あの構図を目に浮かべるかもしれない。その中でオードリー扮するホリー・ゴライトリーは窓辺でギターを弾きながらムーンリバーを歌う。映画を見たことのない人でも知っているくらい有名な話だ。(実際私がそうであった)ただここでは映画と小説の差異やカポーティの言い分などには触れない。キリがないから。
ともあれ、すごく久しぶりにカポーティの小説を読んでみた。まずは題名の訳「ティファニーの」でも「ティファニーでの」でもなく、「朝食を」と呼びかけるようなタイトルも良い。自由奔放に見えるホリーを中心に話は進み、主人公である「私」によってホリーについて語られていく。考えてみればカポーティが影響を受けたと思われる、フィッツジェラルドの代表作『偉大なるギャツビー』とも通じるような気がする。映画でいえば『市民ケーン』とか。とにかくある人物の肖像を第三者の目で描いていく、ポートレイト的な小説になるのかな。改めて感心したのがカポーティの文章の技術。別にレトリックがどうこうでもないのだが、文の並べ方というか、視点と流れがお見事(それでいて難解でもない)。そういうところもフィッツジェラルドに通じるかな。安易に結論づけていいのかわからないけれど、10代の頃から評価されたことを思うと天性によるものなのかもしれない。ただ上手いだけでなく、小説ならではの描写も素晴らしい。例えばホリーの本名を教えられた「私」がすれ違ったホリーにいつもの呼び方ではなく、あえて本名で呼びかけ、ホリーは表情を曇らす。そして物語の終盤に「私」が猫を見つけ、ホリーへの思いを綴る場面も実にしゃれていて映画でも演劇でも表現できない類いのものだろう。
さて話は『ムーンリバー』にうつるが、特に私が説明する必要もないだろう。歌詞も調べたらいくらでも出てくる。ジャズスタンダードの中でも特に有名で結婚式やらイベントやらでも演奏することしばしばあるし、あるいはBGMやCMで耳にしたことも多いだろう。作曲したのは『ひまわり』や『酒とバラの日々』の作者としても有名なヘンリー・マンシーニ。私はマンシーニのアレンジというのが結構好きで、『ひまわり』にも通じるけれど、オーケストラとそれ以外の楽器のコーディネーションも素晴らしいし、転調も実に効果的だ。
最近思い出したのは今年亡くなったギタリストSylvain Lucの演奏。本来3拍子であるこの曲を彼は自分のトリオのデビューアルバムでブラジル風に演奏している。それ自体素晴らしい演奏なんだけれど、ちょうど一か月くらい前にYoutubeで見つけた動画があった。トランペットStephane Belmondo、ギターBireli Lagrene、ベースRemi Vignolo、ドラムスAndre Ceccarelliの四人で演奏しているのだが、このうちRemiを除く3人は各々Sylvain Lucとユニットを組んでおり録音もしている。(Remiも時々共演はしていたと思う)その四人がまさに前述したSylvain Lucと同じようなアレンジで『ムーンリバー』を演奏している。特に何もメッセージは出していないのだがある種の追悼の意らしきものを感じざるを得なかった。
最後に再び『ティファニーで朝食を』の話を。言うまでもなくティファニーは宝石のお店であり、朝食なんか出すわけがないのだが「そんな(夢のような)ことをしてみたい」というホリーの思いつきがタイトルになっている。近年、この作品にあやかってニューヨークのティファニーにカフェを作ったらしい。カポーティが望んだかどうか別にして、元々ある作家が思いついた小娘の(夢のような)発想が現実になっているのは実にアメリカらしい。「1マイルよりも幅広いムーンリバーを渡りたい」といった夢を描くムーンリバーの歌詞にもふさわしく感じる。