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『痛ましい事故』とEmily
『痛ましい事故』、ジェイムズ•ジョイス短編集『ダブリンの市民』より。この短編集はジョイスが「ダブリンのparalysis(麻痺、無気力)」を描くつもりであったという。
銀行員として働くダフィ氏は同僚とつるむのは苦手で、一人で本を読んだりコンサートに行くことを好む。たまたまホールで隣の女性が「こんな空席だらけで、オペラを歌うなんて気の毒ね」と独り言のように呟き、彼はその言葉を会話の誘いと感じる。それから何度かホールで見かけ、彼女の連れている音大生らしき娘さんの様子から、自分と同世代くらいと思い声をかける。彼女はエミリー•シニコーと名乗る。
後ろめたい関係になるのも嫌なので家へ挨拶にいくと、彼女の夫はダフィが娘に興味あると思って歓迎する。夫は船長なので出張が多く、妻への関心は特にない。ダフィとエミリーは彼女の家で時おり会うようになり政治、文学、芸術、様々なことを語り合うようになる。ある日、彼との会話中、エミリーは彼の両手をとって彼女の左右の両頬につけた。
ダフィは失望する。やっと理想の話し相手、同志を見つけたと思ったら、そこらの男女の関係を求めていたのか。その後少し距離を置くようになり、やがて「もう会うのはやめよう」と伝える。別れ際、彼女が震えているのがわかったが、そのまま立ち去る。
それから4年。コンサートに行かなくなったことを除き、日常に戻ったダフィ。ある日新聞を読みながら夕食をとっていたが、手を止める。載っていたのはエミリーが酔って線路ではねられて死亡した、という記事。家族によると、ここ何年かで酒に溺れるようになり、アルコール中毒者を更正する会に行かせようとしていたという。運転手も対応のしようがく、ただ「痛ましい事故」だった、と記事は終わる。なんて愚かな女だ、と彼は嘆く。「痛ましい」という表現すら彼を苛立たせる。
気が落ち着かず表に出る。酒を飲む人々、暗い場所で秘められた恋を楽しむ男女、何をみてもエミリーを思い出す。どうすればよかったのか。茶番を続けても無駄だし、おおっぴろげに同棲するわけにもいかない。(注:当時のアイルランドはカトリック信仰が特に強く離婚は固く禁じられている。離婚せずに駆け落ちみたいな形はあったようだが)
どこともなく歩き、かつて二人で歩いた道につくと彼女の声、彼女の手を強く思い出す。彼女はあの部屋でどんな寂しい時間を過ごしていたのだろう。一人の人間が自分のことを愛してくれたかもしれないが、自分はその人を拒んだ。そして自分も彼女のように孤独な生を送るのだろう。ちょうど夜汽車が通りすぎる。その音が彼女の名前の音節を響かせているように聞こえる。再び静かになったとき、ダフィは改めて自らの孤独を感じる。
さて音楽の話。その名の通り、Emilyという曲。1964年の映画のテーマ曲のようで、(先日たまたま触れた?)戦争忌避者のラブコメらしい。作曲はジョニー•マンデルで歌詞も王道のラブソング。三拍子の明るくも切ないワルツでシナトラやベネットも歌っているけれど、ビル•エバンスが長年とりあげたことでも有名。最近ではジュリアン•ラージもよくやっている。エバンスはエンディングで転調を重ねた後、マイナーコードで終わるのだが実に彼らしい。
余談。ジョイスの影響を受けたであろうウィリアム•フォークナーも『エミリーに薔薇を』という短編を書いていて、これまた不幸な女性を描いているんだけど、それはまた別の話。
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